東京高等裁判所 昭和52年(う)951号 判決 1977年10月31日
被告人 吉田忍
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人浅井通泰の提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官中野林之助の提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
これらに対し、当裁判所は次のとおり判断する。
所論は要するに、被告人の本件所為は、婦人用自転車に乗つて通りかかつた被告人が山田堅治巡査の職務質問を受け、一応これに答えた後、急ぐので行かせてくれと言つて立ち去ろうしたところ、同巡査がこれを制止しようとして被告人の自転車の把手を押え、さらにその左腕を両手で掴み、かかえ込むようにして自転車から引きずり倒し、立ち上つた被告人の襟首をとつて左側道路端に引張つた違法な行為に対し、被告人が振り払おうとして同巡査の胸元を左手で掴んでゆさぶつた正当防衛行為であるのに、原判決は同巡査が自転車の把手を押え、腕を制止した段階で被告人が同巡査の左襟付近を右手で掴んで数回押したり引張つたりしたとして暴行の事実を認定したのは、重大な事実の誤認である、というのである。
よつて、原審記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して検討すると、関係証拠によれば、被告人は昭和五一年一〇月五日午後九時三〇分頃、東京都目黒区中目黒の友人方に仕事に必要な広告デザインの資料を受取りに行くため、電話で約束して、兄嫁の婦人用ミニサイクル自動発電ランプ付自転車に乗つて午後九時四五分頃同都世田谷区野沢四丁目五番二四号先路上に差しかかつた際、折柄警ら勤務中の警視庁碑文谷警察署柿木坂派出所勤務の巡査山田堅治に出会つたが、同巡査は被告人がその直前で点灯したもののそれまで無灯火であつたことから、道路交通法違反の嫌疑に併せて盗難車ではないかとの疑いを持ち、職務質問の目的で被告人に停車を命じ、被告人は道路左端から一米半位の道路上に自転車に乗つたまま両脚を地面に下たし恰好で停車したこと、同巡査が無灯火の点を質したのに対し、被告人から野沢交番の前に立つていた警察官からは何も注意を受けなかつたので、点灯していた筈だとの趣旨の答えがあつたが、同巡査は、自転車が婦人用であり、名前の記載や防犯登録票もなかつたことから盗難車ではないかとの疑いを強め、その所有関係について質問を重ね、被告人はその自転車は兄嫁の千津が、友人から買つたものであると答え、同巡査が更に住所、氏名、職業、行く先を尋ねたのに、被告人は簡単に答えただけで、道路左端に寄るようにとの求めに対し、友人のところに行くのに急いでいるからとしてそのまま立ち去る気配を示したので、同巡査は自転車の左側把手に左手をかけて押え、携帯無線機で碑文谷警察署にパトロールカーの応援を求めたこと等の事実を認めることができる。ところがその後の経緯について、被告人は司法警察員に対する供述調書、原審公判廷並びに当公判廷の供述において「私は急いでいるから勘弁して下さい。後で行きますから派出所と名前を教えて下さいといつたのに対し、警察官は柿木坂の山田といつたものの行かせてくれず、左手を両手で引つ張つた。それで私はお巡りさんも若いですねと言つたが、そのまま引つ張られてバランスを失い、よろめいて膝をつき、自転車は倒れた。私は立ち上つてこういうことまでする必要はないではないかと言うと警察官は、なんだ生意気だ、お前学生かといつて左手で私の右襟首を掴み、首を締めたので私も反射的に左手で警察官の襟元のボタンの辺を掴み、ふり払おうとして前後にこづいたが押えられていた」との趣旨を供述し、これに対し山田巡査は司法警察員に対する供述調書、原審公判廷並びに当公判廷の証言において「被告人は友達のところに行くので急いでいるから行くよと強引に行こうとするので、左腕を押え、振り切ろうとするので更に両手で左腕を掴み、車が来るといけないからと理由を言つて、かかえ込むようにして道路端によせたが、被告人は自転車から下りると、お前まだ若いな、名前何というのだ等と言いながら私に近づき、制服の左襟元付近を右手で掴み、左手で右肩付近を押えて前後に四、五回ゆさぶつた」との趣旨の供述をし、両供述は大きく食い違うのであるが、被告人の供述は逮捕直後から一貫しているのに対し、山田巡査の供述は被告人の自転車が道路端でどのような状態になったかについて、司法警察員に対する供述調書、当公判廷の証言では、被告人自身でスタンドを立てた旨、原審公判廷の証言では山田巡査がスタンドを立て脇によせた旨供述し、なお、当公判廷の証言では、自転車が倒れた記憶もあるが判然としないとも述べ、更にお巡りさん若いなあと被告人が言つたのも被告人が自転車を降りた後かどうか必ずしも判然しないと供述して変転しているのと対比すると、自転車が倒れたか否かについては被告人の前記供述に従い、道路端で倒れたものと認めるのが相当であるが、山田巡査の司法警察員に対する供述調書添付の図面から明らかなように、被告人が山田巡査に指示されて停車した位置が、変形の交差点に近い場所であることに照すと、山田巡査が交通の妨害になることをおそれたことも首肯できるから、これらを総合すると、山田巡査は、自転車に乗つたまま、その場を立ち去ろうとした被告人に対し、なお職務質問を継続するため交通の妨害にならない道路端に寄せようとして被告人の左腕をかかえ込むようにして誘導し、これに対し被告人は不満をもち「お巡りさんも若いですね」などと言つたりしているうちにバランスを失して自転車が倒れ、被告人も膝をついたものと認定するのが相当である。
所論は、被告人は既にその場を立ち去る意思を明らかにし職務質問を拒否していたのであるから山田巡査が被告人の左腕をかかえ込むようにした行為は適法性の限界を超えるものであると主張する。
しかし、午後九時五〇分頃、無灯火で名前の記載も防犯登録票の添付もない婦人用自転車に乗つた男が警察官の問に一応簡単に氏名、住所、職業を答え、兄嫁のものを借りて友人のもとに行くと言つたとしてもその職務質問が五分位で簡単にしか応答がえられず、その場を急いで立ち去る気配を示した場合、更に若干職務質問を続行するためその者の左手を押え、さらに交通の妨害にならないよう左腕をかかえて交差点近くの道路上から一米位離れた道端まで誘導することは警察官職務執行法二条一項にいう停止の方法として適法な職務執行と解せられるから、その際偶々バランスを失して自転車が転倒したとしても、これをもつて警察官の違法な実力行使があつたということはできず、所論は採用できない。
そこで進んで、本件における自転車転倒後の経緯について検討すると、被告人と山田巡査との掴み合いについて、そのいずれが先に暴行の行為に出たかについては、前記のとおり両者の供述が全く相反し、それぞれ具体的な状況を述べるため認定は困難といわざるをえないが、前示のような山田巡査の供述の変転に対比し、被告人が逮捕以来山田巡査の暴行が先行した旨を主張し、略式命令に対し正式裁判を以て争う一貫した態度をも併せ考慮すると、山田巡査の証言をもつてしては、なお被告人が先に山田巡査に暴行を加えたとするに若干の疑問が残るのであつて、事の真相はむしろ、山田巡査が、被告人の左腕をかかえ込んでいた際「お巡りさんも若いですね」と言われたのに引き続き「こういうことまでする必要はないでしよう」と抗議されたのに興奮し、先に被告人の襟元を掴んで暴行行為に出たため、被告人もこれを振り払うため咄嗟に左手で山田巡査の胸元を掴んで四、五回ゆさぶつたという経過であつたのではあるまいかという疑いを拭い去ることができない。そして他に被告人が同巡査の適法な職務執行行為中に先制攻撃を加えたと断定するにたる証拠は存在しない。そうすると、被告人の右の程度の暴行行為は山田巡査の暴行に対する正当防衛行為と認めるほかはないのであるから、被告人の行為をたやすく暴行罪と認定した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。
よつて刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に判決する。
本件公訴事実の要旨は
被告人は昭和五一年一〇月五日午後九時五六分ころ、東京都世田谷区野沢四丁目五番地二四号先路上において、山田堅治(当二〇年)に対し、右手で同人の右襟付近をつかんでその身体を数回前後に押し、かつ引張るなどの暴行を加えたものである。というのであるが、被告人の行為は前叙説示のとおりの理由により、結局刑法三六条一項に所謂正当防衛として刑訴法三三六条により無罪の言渡をする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 小松正富 千葉和郎 鈴木勝利)